Anna Karenina |
「破滅をもたらすもの」が消え、世界が何事もなかったかのように生まれ変わってから、少しの時間が過ぎた頃。 俺、魔神勇二は、ミュシャとアンナの姉妹と穏やかな時を過ごしていた。 あの時、すべてが元通りになって、ミュシャとアンナはキラードールではなく人間として、それが事実である現実に俺たちはいた。 俺たちはいつも3人で連れ立って遊んだ。新しい人生を、謳歌していた。 いきさつを知らない若人や秋月、美咲たちは、俺がこのロシア人姉妹と仲良くしていることに不思議がっているが―― 「なあ、勇二ともあろうものがいったいどうしたんだ? あんな可愛いコたちといつの間にか仲良くなってるなんてさ」 ――そのような雑音は気にしないことにしておく。 ある週末のこと、俺はミュシャたちの住まいを訪ねた。ふたりは科学者の父親と一緒にマンションに住んでいる。週末にはここを訪ねるのが今の俺の習慣になっている。そして3人で遠出をしたり、近場でのんびりと過ごしたりするのが常だった。その日も俺はそのつもりで、ドアの外の呼び鈴を鳴らした。 扉を開けたのはミュシャではなくてアンナだった。 「あっ、いらっしゃい」 アンナははにかむような微笑みを浮かべて俺を出迎え、中に案内してくれた。 キラードールとしてミュシャを追いまわしていた頃は、アンナの表情はいつも怒りと悲しみの間を行ったり来たりしていた。けれども人間に生まれ変わってからは、だんだんと笑顔を浮かべるようになってきている。初めはぎこちなく、遠慮深げに。ミュシャの天真爛漫な笑顔に比べたら、まだそれは日陰に咲く花のようなものだが、それでもアンナらしい、と思える笑顔になってきている。 「アンナの笑顔は、優しいな」 「えっ……」 「ふと、そう思ったんだ」 「からかわないで。ミュシャ――ねえさんにだってそんなこと言わないくせに」 アンナは顔を伏せた。確かにミュシャには言ったことがない。ミュシャの笑顔は、アンナとは違う。ミュシャの笑顔は明るいのだ。 「お茶でも淹れてくる」 アンナはそう言って、ぱたぱたとキッチンへと向かった。 「はい、どうぞ……紅茶で良かったよね」 「ああ、いただこう」 上品な香りが漂うティーカップを口へ運んだ。美味い。以前飲んだアレに比べると雲泥の差だ。 「……? なにか、不味かった……?」 「ん?」 アンナが不安そうに俺を見詰めていた。 「勇二、口が笑っているから」 そう言われてはじめて、自分の頬が緩んでいるのに気が付いた。 「いや、味はいい。ただ思い出しただけだ。ミュシャが初めて紅茶を淹れた時のことを……」 「……私のと比べて、どうだった?」 「む……ミュシャのは、紅茶の淹れ方ではなかったな」 俺は初めてミュシャに紅茶をご馳走になった時のことを手短に話して聞かせた。 「そう……ねえさんらしい」 そう言ってアンナは少し笑った。 「そういえば、今日はミュシャはどうしたんだ?」 会話が途切れて、俺は思い出したようにそう言った。 「ねえさんは、今日は出かけてる」 「珍しいな」 「ん、そうかな……」 最近は3人でいるのが当然のように感じていた。だから少し意外だった。普段と違う、ということがなんだか気になった。 「…………」 「…………」 静かな沈黙が続いた。ミュシャがいないだけで、こんなにも空気が静かだった。ティーカップに口をつける。ずず、という水音さえも響くようだった。それは新鮮で、しかし嫌なものではなかった。 「ねぇ、勇二……」 ゆっくりと、沈黙を破るようにしてアンナが口を開いた。 「なんだ?」 「ねえさん――ミュシャのこと、好きだよね?」 「な、なんでそんなことを聞く?」 俺は思わず顔を逸らした。改めて尋ねられると気恥ずかしいのだ。 けれどもアンナは身体を乗り出すようにして俺に迫ってきた。 「答えて! ミュシャは、今日はいない……。わたしが、わざと用事を頼んだから」 「なに……?」 「ふたりだけで、いたかった」 振り向いた視線の先で、アンナは、うっすらと赤く頬を染めていた。 「ねぇ、そんなに、ミュシャが好きなの?」 「アンナ……?」 「わたしだって……わたしだって勇二のこと好きだ。わたしに初めて優しく声をかけてくれただろう? わたしを救いたいって、勇二は言ってくれたじゃないか……」 そうして、アンナは俺に体重を預けてくる。やわらかくてあたたかい感触が俺の身体に触れる。 「勇二……抱いて欲しい」 「っ……しかし」 「勇二はわたしのこと嫌いなのか?」 「嫌いなはずがないだろう!」 俺は首を振った。 「しかし、俺は既にミュシャに愛を誓った身……おまえの想いに応えることはできん!」 「ミュシャを抱いたのか? いつ?」 「……ミュシャの、機能が停止する直前だ」 「……それは……『以前の』時間のことだな?」 「そうだ」 「それなら! そんなものは関係ない。それは失われた時間、今ではわたしたち3人の記憶にしかないものだ。そんなものは事実じゃない!」 アンナが叫ぶように言った。 確かに、今俺の手に破滅の刻印はない。父さんも母さんも兄さんも恵もいる。あの日々は消えてしまった、すべては白紙に戻ったのだ。 「だったら……もう一度初めからやりなおしたっていいはずだろう……?」 アンナの声音が、震える。瞳から涙が流れていた。 「以前のわたしには、そのチャンスも与えられなかった……」 そう言って、アンナは俺の胸にすがりついた。その涙に濡れた顔が、以前のアンナとだぶる。 そう、以前もこんな……捨てられた子犬のような顔をして、そんなアンナに俺は声をかけたのだった。『おまえを救いたい』と……。 嘘偽りない本心だった。しかし、それは後先を考えない無責任な言葉だった。 その時俺はアンナを救えなかったのだから。アンナにとっては気休めにもならない善意――それはもしかしたら悪意よりも性質の悪いもの――だったに違いない。 そして今になっても、あの時の言葉がアンナを責め縛りつけている。ならばその原因は俺にある。 「っすまないアンナ。俺はなんて馬鹿だったんだ……!!」 俺はアンナの小柄な身体をかき抱いた。 「そうだ、馬鹿だ! 貴様も、ミュシャも、初めて会った時から……。……っ、でも、馬鹿になれないわたしが、いちばん馬鹿だった……」 後から後から流れる涙を拭おうともせず、しゃくりあげながら、アンナは顔を上げた。 「でも、勇二の前では馬鹿なわたしでいたい……」 (ミュシャ……) 俺はミュシャのことを思った。以前愛を誓った女性を。 過去の事実が失われたといっても、俺はミュシャを裏切れるか? だが、俺の胸で泣きじゃくるアンナを愛しいと思う気持ちも、紛れもないものだ。 「勇二……」 アンナが潤んだ目で見上げる。 「好きだ」 アンナの瞳から涙がこぼれた。熱い雫。オイルとは違う、感情の雫。 それに抗うすべを俺は持たなかった。 俺がアンナのベッドから身を起こした頃には、もう陽が沈んでいた。 アンナは俺の横ですうすうと寝息を立てていた。その頬に涙の雫が乗っていた。 俺はアンナの涙を拭った。もう冷えて、冷たい。 けれどそれはもう悲しみの涙じゃなかった。 寝室から出て居間に向かう。 「勇二……」 そこには、いつの間に帰ってきたのか、ミュシャがいた。 「ミュシャ……」 俺は言葉を失う。ミュシャにかける言葉が見つからなかった。しかしそんな俺に、ミュシャは寂しく微笑みかけた。 「勇二、辛そうな顔してます」 「そんな顔してたら、アンナちゃんが心配するですよ?」 「ミュシャ……!」 「アンナちゃんを大事にしてあげてください」 「何故……そんな」 俺には、ミュシャの言葉の意図がわからなかった。俺は責められるべきだろう。しかしミュシャの言葉は恨みも悲しみも、ない。あるとしたら、それは寂しさか。 「ミュね、今でも少しだけアンナちゃんの記憶持ってるんです。辛くて、哀しくて、痛い記憶……。でも、アンナちゃんはミュの記憶は持ってません」 そう言って微笑む。 「それって、不公平でしょ? ミュはお父さんにも優しくしてもらえたし、勇二と出会ってから楽しいこと、嬉しいこと、いっぱい経験しました。女の子としての思い出も……」 「でもアンナちゃんは――」 ミュシャの言葉は途切れる。その奥には、深い妹への優しさと、負い目があった。アンナが「死んだ」時、ミュシャは泣いた。自分がどれだけ幸福かも知らずに、そして妹がどれだけ苦しんでいたかも知らずに、無邪気にアンナを救おうとしていたこと。しかしその罪は流した涙では償いきれないほどだったから。 「だから、いいんです。ミュはもう幸せすぎるぐらい幸せにしてもらいましたから。ミュは今度はアンナちゃんにもっと幸せになってもらいたいんです!」 その真摯な言葉に、俺は、面と向かって責められるよりも胸が締め付けられる気がした。 「すまない……ミュシャ……!」 「あ、謝っちゃダメです。ミュは勇二と何も約束してないんですから。勇二に悪いところなんてなにもないです」 「ダメなのは、ミュですね。あはは、ミュはお姉さんなのに、馬鹿だから。だから妹がお友達と好き合ってるの、わかんなかったです」 そう言って笑う。けれども俺はその目の端に光るものを見逃しはしなかった。 「ミュシャ……」 「そういうわけです。ミュはふたりのことおーえんしてますから、頑張ってください!」 「ミュシャ……す」 すまない、と言いかけて止めた。ミュシャに謝るなと言われたばかりだった。謝ればミュシャの気持ちを無にすることになる。そしてそれはアンナにも悪いことだ。 「ミュシャ……ありがとう……」 俺がそう言うと、ミュシャは少し涙を浮かべた顔で、けれどもにっこりと微笑んだ。 それからしばらくして、桜の季節になった頃、俺とアンナは家を出た。 俺は学校を卒業したし、アンナの父親が帰国するということで、俺たちは離れ離れになるのはごめんだったからだ。 そして、今はふたりで部屋を借りて暮らしている。 「わたしと一緒になって良かっただろう? ねえさんに身の回りのことを任せたりしたら大変だぞ」 洗濯ものを干しながら、アンナが言う。性格の違いからか、アンナは確かに何事も手際よくこなす。いまだにミュシャを比較に持ち出すところは、少しあれだが。 「それじゃ、わたしは学校に行って来るから。勇二も夕飯までには帰ってきてよ」 「ああ、わかってる」 「それじゃ……」 と、不意にアンナが顔を近づけてくる。 「うっ?」 完全に不意を突かれた一撃は、よけることすらかなわずに、俺を捉えた。 熱い、やわらかい感触が、唇に触れた。 「えへへ、行ってきますのキス。勇二からは絶対してくれないから、わたしから貰っちゃった」 いたずらな笑みをして、アンナが離れる。 「それじゃ、行ってきます」 「あ、ああ……」 弾けるようなアンナの笑顔を見送って思った。俺はもう二度と道を違えないだろう、と。
あとがき 2001.8.4 |