初めてのバレンタイン・メモリー

 




 それは年もあけ、年末年始の忙しなさも一段落した冬のある日のことだった。

 ハウレーン・プロヴァンスは長く結わえた髪を規則正しく揺らしながら、自軍の訓練場へと続く回廊をきびきびとした足取りで歩いていた。いつもの道程。ハウレーンの中ではなんら変わることなどない、冬の朝である。しかし、ふとハウレーンは足を止めた。

 朝特有の、慌ただしい城内のざわめきが聞こえる。しかしそれが、自分が慣れ親しんだものとは何か違う気がしたのだ。しばらく立ち止まって、ハウレーンは耳を澄ませてみる。冬の空気はシンと冷えていて、音を良く伝えるようだ。

 1分ほどもそうしていただろうか。ハウレーンには違和感の正体がなんとなくわかった。

(そうか、随分と娘の数が増えたものだな……)

 ハウレーンはぼんやりと考えた。城に出入りする女性が大幅に増えたことが、城のざわめきの質を変化させていたのだ。たとえば、少し前まで、女性の将軍と言えば自分も含め数人しかいなかったものだが、今は女性将軍の方が多いほど。将軍以外の女性も増えているから、それを含めればざわめきの質も変わろう。ハウレーンは軽く眉を顰めた。

(それというのもあの男のせいだ)

 あの男、ランスが王となってから、リーザスは変わった。女好きの王が集めた娘たちのさざめく声が、以前は厳粛だった城の雰囲気を一変させている。

 それにしてもしかし、今朝は娘たちが特にかしましい。地に足がついていないような、そんな浮かれた雰囲気がする。そうでなければ、ハウレーンも気にはしなかったろう。ハウレーンは再び歩を進めながら、なんとはなしに、聞こえてくる娘たちのおしゃべりに耳を傾けてみた。

 どうということのない、他愛のないおしゃべりが大半だ。

(やはり、聞き耳を立てるほどのものではない、か……)

 そう思って意識を移しかけた時、しかしひとつの言葉が、ハウレーンの意識を捕えた。


 バレンタイン、という単語。


 それで得心する。

 暦は2月。2月14日の聖バレンタイン・デーまでもう間もなくだ。娘たちがそわそわし、男たちが浮き足立つのにも納得だった。

 あらためて耳を澄ませてみると、そこかしこから、その手の話題は漏れ聞こえてきた。

「……誰にあげる?」

「リック将軍!」

「エクス様――」

「――チョコが……で」

「もちろん――よっ!」

「でも――の嫉妬が怖くない?」

「……やっぱり手作り? それとも……」

 城仕えのメイドたち、若い親衛隊員たち、ハウレーンが名も知らないような新顔の娘たちが、口々にその手の話題をさえずっている。ハウレーンはそ知らぬ顔で訓練場へと歩みを進めたが、一度意識したものは、どんどんと耳から入ってきてしまっていた。

 そんなものには興味がない。――そんな風な素振りをしているハウレーンであるが、それが嘘であることは自分が良く知っている。人並みに、娘らしいイベントのひとつも体験してみたい――そう思っているが、男親に騎士として育てられたハウレーンには、機会も知識も、相手さえもいないだけなのだ。

(いや……渡す相手がいないわけじゃない、か……?)

 そこまで考えて、ハウレーンは浮かびかけたその考えを慌てて打ち消した。

 自分には関係ないイベントなのだ。今までも、これからも。そう思っていた方が、余程気が楽だ。訓練場に到着すると、そう思い直して、ハウレーンはその日の訓練を開始した。






 だが、何事も思っているようにコトは運ばないというのが常だ。

 その日の訓練は順調に進んでいたが、順調すぎて予定を随分早めに消化した為に、少し予定外の休憩を入れる事にした。ハウレーンも腰を下ろして一息つこうとした、その時だった。

「あの……副将、ちょっと伺いたいことがあるんですが……」

「なんだ、あらたまって?」

 部下たち数人が、なにやら神妙なような、それでいて興味に目を輝かせた面持ちで、ハウレーンの周りにやって来た。そのうちのひとりが代表して、ハウレーンに声をかけてきたのだ。兵士はなにやら言い出しにくそうに躊躇った後、思い切りがついたのか、その言葉を口にした。

「副将は、バレンタインのチョコ、王に差上げるんですか?」



 一瞬、ハウレーンの頭の中が真っ白になった。

 兵士たちの好奇の視線が見守る中で、ハウレーンは数瞬固まり、それから、その顔が徐々に赤く染まる。そして、次の瞬間、

「だっ、誰が! 誰に、何を、あげるだと!?」

 ハウレーンは爆発した。

「いや、その、すみません! ちょっと副将! 剣を下ろしてくださいぃっ!!」

 いきなり剣を突きつけられた兵士が真っ青になる。後ろの兵士たちも一歩二歩とあとずさった。

「う、噂なんですよ」

 喉元に切っ先を当てられた哀れな兵士に代わって、後ろの兵士のひとりが震えた声をだした。

「噂だと?」

「はい。バレンタインデーに、王にチョコを出したか出さないかで、人事異動があるって」

「なんでも、チョコを出して気に入られれば昇進確実。将軍も夢じゃないとか」

 そんなことを口々に言う。どうやらからかっているわけではないようだ。事情がわかってきて、ハウレーンが剣を引くと、兵士はようやく気が抜けて、後ろに尻餅をついた。ハウレーンは呆れた溜息をつく。

「……馬鹿らしい。だいたいお前たち男が気にすることじゃないだろう?」

「やっぱりそうですかねー」

「いやでもひょっとしたら、男でも……昇進できるなら狙ってみる価値があるかなって」

 ハウレーンは、目の前の兵士がランスにチョコを差し出している光景を想像した。彼に待っているのは昇進どころか、確実な死、のみである。

「それだけはやめておけ。私はそんなくだらないことで、部下を失いたくはない」

 こめかみを押さえて、腕を振るハウレーンに、その胸中を知らない部下たちは「はあ」と気の抜けた返事を返した。


 さて、ハウレーンは気を取り直して、上官の顔に戻ると、お気楽休憩モードだった部下たちを睥睨する。

「だいたい、根も葉もない噂だ、それは。たとえ本当だとしても、そんなことで手に入る地位などろくなものではない。そんなものを真に受けるなど、たるんでいる証拠だ! お前たち、休憩は終わりだ! 今すぐ装備をつけてグラウンドを10周!」

「ひえぇぇぇぇっ!!!」

 仁王立ちしたハウレーンの怒声に、兵士たちはあたふたと転がるようにして散っていった。ハウレーンは憤然としてそれを見やりながら、しかし心の中ではぐるぐると今の兵士の言葉が渦を巻いていた。

 さっきは根も葉もない噂だと否定したが、火のないところに煙は立たない、とも言う。というより、あの男ならそのぐらいのことはやりかねないとハウレーンは思ってしまう。将軍抜擢はさすがにやり過ぎだろうが、チョコを渡すか渡さないかで、あの男の心証が変わることは確かだろう。そこが問題だ。

 別に、そんな賄賂で将軍の地位が欲しいわけではないが。もしチョコを渡したことでなにかしら優遇されることがあり得るならば、チョコを渡さなかったことで冷遇されることも、また確実にあり得るのではないだろうか?







「バレンタインの噂、ですか?」

 メナド・シセイは大きな鳶色の目を見開いて、ハウレーンを見詰め返した。

 少年のようで、くるくると素直に表情が変わる娘である。その顔が、まるで予想外の、何か変なものでも見るようにハウレーンを見詰めているのだ。その反応はある程度予想していたが、それでもハウレーンは少したじろいだ。

「そのっ……聞いていないなら、いいんだッ! ただ、部下たちが話をしていて――少し、気になっただけだから、な。……邪魔をした」

「あッ! ちょっと待って、ハウレーンさん!」

 慌てて踵を返すハウレーンを、メナドの腕が捕まえた。

「もう。そんなに慌てなくても……ちょっと、驚いただけですって」

 くすくすと笑いながら、ハウレーンを引き戻す。ハウレーンはばつが悪そうに額をかきながらメナドに従った。

「笑ってくれるなよ。私自身、こんなことを気にするのは、どうかと思っているんだ……」

 ハウレーンは悩んだ挙句、メナドに相談に来たのだった。男性なら、上官のエクスや父親のバレスなど相談相手にうってつけだが、コトがバレンタインのチョコとなれば、同じ女性にしか相談は出来ない。そんなわけで、年下ではあるが、同じ副将で女性騎士のメナドを相談相手に選んだのだ。

 メナドは自室にハウレーンを引っ張り込むと、自分は机にぴょんと腰掛けて、ハウレーンに椅子を勧めた。

「で、バレンタインの噂ですけど――――聞いたことありますよ」

「本当か?」

「王様にチョコを渡したかどうかで、待遇が決まる……ってヤツでしょ?」

「ああ、どう思う? ただの噂だと思うんだが、王が王だけに、頭から否定し切れなくて困っている」

「あははっ、うん。王様ならやりそーですよね」

 何がおかしいのか、メナドは笑いながら足をぷらぷらさせた。そこにはハウレーンのような悩みや困惑の表情は存在しない。

(そういえば、メナドは王を慕っていたんだったな……)

 そう思い出して、ハウレーンは嫌な予感がした。そして、はたしてメナドはハウレーンの思っていた通りのことを口にした。


「チョコ、渡せばいいじゃないですか。王様に」


「なっ、……どうしてそうなるんだッ!?」

 ハウレーンは思わず立ち上がって、声をあげる。けれどメナドは涼しい顔だ。

「どうしてって、ハウレーンさんはチョコを渡さなかった時の降格が心配なんでしょう? だったら、渡せばいいだけのことです。それで万事解決。はい、おしまいっ!」

 ぱんッ! と手を叩いて、ハウレーンを見る。そこにはからかいとか皮肉とかは含まれていない。メナドは本心からそう思っているのだ。

「そうじゃないッ! 私は噂の真偽を知りたいんだ。チョコを渡すべきかどうか相談しているわけじゃ――」

「それについては、もう言ったじゃないですか。噂は聞いたことがあるけど、噂は噂。真偽なんてわかりません。だったら、嘘でもほんとでも、チョコを渡しておくしかないでしょう?」

「うっ……それは……」

 ハウレーンは言葉に詰まる。確かにそうなのだが。ハウレーンは噂の真偽こそを知りはしないかとメナドを訪ねたのだ。これは失敗だったとしか言えない。

 メナドは「ね? そうでしょ」と首を傾げて同意を求めている。もちろんこの娘にとっては、ランスにチョコを渡すという行為は問題ない。どころか当然のように思っている節がある。だが、ハウレーンにとっては、それは一大事なのである。そもそも、今までにバレンタイン・チョコを誰かに贈ったことなどない。

(メナドでは駄目だ。ここはやはり、レイラさんかマリス様に……)

 そう考えて、すぐに思い直した。リックという想い人がいるレイラにバレンタインのことを話題にするのは、なんだか憚られるし、そもそも、レイラもマリスもランスのことを嫌っていない。しかも親衛隊長と筆頭侍女という近しさだ。チョコのひとつぐらい渡して当然ではないか? だとすれば、相談してもメナドと同じ答えが返ってくるだけだ。ハウレーンは戦場で孤立無援になったような錯覚を覚えた。

「……ハウレーンさん? 大丈夫ですか、ボーッとして」

 気付くと、メナドが心配そうに顔を覗き込んでいた。しばらく放心していたらしい。

「ん、ああ……わかった。メナドの言う通りにしてみよう……」

 肩を落として、そう答えた。

 14日までまだ10日ほどある。チョコを買いに行くぐらいのヒマはあるだろう……。

 しかし、それがハウレーンの見込み違いだったことに気付くのは、それからしばらくしてからだった。






「あれ、ジュリアだけか。レイラさんは?」

 数日後、所用で親衛隊の詰所を訪れたハウレーンは、目当ての顔を探してきょろきょろとあたりを見回した。しかし見つかるのは、なにやらひとりでごそごそとしている童顔の隊員だけだった。

「レイラちゃんは、おでかけー。何か用? ハウレーンちゃん」

 その隊員、ジュリアは顔に見合った舌足らずな喋りで、ハウレーンを見上げた。

「……たいした用ではない。また後で来るとしよう」

 ジュリアは親衛隊のお荷物と呼ばれる駄目娘である。伝言などを伝える気にもならず、ハウレーンはそう言って踵を返そうとした。が、たまたま、ジュリアの手元に目が行った。

「ジュリア、それは何をしているんだ?」

 ジュリアは何か焦げ茶色っぽい固まりをナイフで砕いているところだった。それはどうもチョコレートのようだ。

「んー? これはねぇ、チョコだよ。ぬりかべのおじちゃんにあげるの」

 果たして、ジュリアの答えもその通りだった。しかしハウレーンがわからないのは、チョコを砕いてどうするのか、だ。もう一度それを尋ねると、ジュリアは、

「手作りチョコを作るんだよ」

 と言って、説明してくれた。いわく、

「やっぱり、お店で買ったままのチョコだと、真心がこもってないでしょ?」

「そ、そうなのか?」

「んー、ハウレーンちゃん、自分がもらった時のことをかんがえてみれば? どっちが嬉しい?」

「それは――! ……しかし、店ではいろいろなチョコが売っているじゃないか?」

「あれはー、義理チョコ用? それか、マリアちゃんみたいに、どうしても作れない人用なの」

「うう……チョコ作りというのは、そんなに誰でも出来るものなのか?」

「そんなに難しくないよ。普通の女の子はみんなね、がんばってチョコを作るんだからー」

「むむむ……」

 いつしかハウレーンは、腕組みをして考え込んでしまった。

 これは予想外の事態だった。ハウレーンはちょっと1,2時間ほどヒマを見つけて、店で買ってきたチョコで済まそうと考えていたのだから、まさしく寝耳に水である。しかし、納得できる話でもある。その辺で買える物ではなく、手作りの一品物なればこそ、世の男どもはああもチョコを欲しがるのか。しかも、ハウレーンにとって問題なのは、おそらくランスにチョコを贈る娘たちの大多数は、チョコを自作してくるだろうという事実だった。そんな中でひとりだけ、既製品を出す気まずさといったら! 考えたくもない。

 となれば、ハウレーンに許された選択肢はひとつ。

(私も…………作ってみる……か)

 自信はない。しかし、親衛隊一のあんぽんたん娘であるジュリアでさえ、こうして楽々と作業をこなしているではないか。自分に出来ない道理はない……はずだ。それに、その方が喜んでもらえるなら――

(いや、別に、あの男のためじゃないぞ。ツマラナイことで言いがかりをつけられないように、だ。そう、これは保険。仕方なく作るんだ。あの男がす、好きだからとか、そういうことじゃない。……断じて!)

 けれど、幾度となく身体を重ねた相手ではある。

(それは、しかし、あれはあの男が無理矢理……)

 不意に、唇を奪われたこともある。

(私をからかって、遊んでいるだけだッ!)

 ふたりきりで、Mランドを回ったことさえある。

(デートじゃない。あれはそんなものじゃない……きっと……たぶん)

 そんなハウレーンの回想は、ジュリアの声に中断された。

「あれー? ハウレーンちゃん、顔赤いよ?」

「ッ、な、違う! 気にするな!」

「えへへー、ハウレーンちゃんも誰かにチョコ、あげるんだ?」

 にへら、とジュリアが笑う。その反応でハウレーンはさらに茹であがった。

「違うといっているだろうッ! もう用はない! 私は帰るぞ!」

 勢い良く扉を閉めて。靴音も高くハウレーンは詰所を後にした。

(……これは、何日か休みを取らなければならないかも知れないな……)

 そんなことを思いながら。







 さてその2日後。

 エクスに3日後――つまり14日までの休暇申請をして、ハウレーンは準備を整えた。

 しかし、チョコをつくる事にしたのは良いのだが、そもそも興味もなく、料理は野戦の食事を大量に作るといった「味より量」のような料理しかしたことがない。ハウレーンにとって、お菓子作りなどというデリケートな料理はまさに未知の領域であった。

 誰かに教われば良いようなものだが、あいにくハウレーンには料理の相談をするような友人など持っていない。どうにかこうにか菓子作りの本を手に入れて、それとにらめっこしながら格闘することになった。

「よっ……と。これで準備はOKだな」

 これは戦いだった。ならば正装というものが必要であろう。髪と同じ色のピンクのエプロンを身につけ、ご丁寧に三角巾を頭に巻いて、ハウレーンは調理台に相対した。

「……いきなり本番はまずいだろうな、やはり……」

 期日が迫り、焦っていたハウレーンだが、かろうじてそう考える余裕はあった。何事も初めから上手くいくものではない。思い出してみるに、初めてカレーを作ったときも、兵士たちにはすこぶる不評であった。(現状が好評と言うわけでもないが……)

 とりあえず、ぶっつけ本番は避ける事にする。幸い、材料は多めに用意してある。材料の半分弱を使って、ハウレーンは調理に取り掛かった。

「まず、包丁でチョコを砕いて…………っツ、く、指切った!」

「テンパリング……温度計? たかが菓子作りに、そんなものがいるのか!?」

「うああっ! 焦げてる……」

「……これで、型に流し込めば……」

 そして、そんな数々の苦難を乗り越え――

「ダメだ……」

 出来上がったものは、到底成功とは言い難かった。

 まず、見た目がまずい。型抜きが失敗したせいで、ハート型になるはずだったチョコはバッキリと割れてしまっていた。いくらなんでもこんなものを贈るのはイヤガラセだ。

 次に、デコレートしようとしたホワイトチョコレートは、なにかスライムがのたくったような、なんとも不気味な具合に垂れてしまっている。まるで呪いの文字のようだ。

 そして加えて、味も合格とは言えなかった。香りも悪く、焦がしてしまったせいか、チョコのものではない苦味が入ってしまっている。

「駄目だ駄目だダメだぁっ! くっ、まだ時間はある…………やり直しだッ!」

 ここまで来たらもはや意地である。ハウレーンは再度調理台に向かった。






「……もうそろそろ、固まっている頃か」

 ハウレーンは眠い目をしばたきながら、呟いた。

 二度目ともなれば、少しは要領も分かってくる。ハウレーンは冷蔵庫から型に入れたチョコを取り出して、慎重に型を叩いた。ポン、と音がしてチョコレートが抜け落ちる。それを確認してハウレーンはホッと安心の表情を浮かべた。

「よし、割れてない。あとは飾りだけだな」

 それも不安は少ない。チョコを冷やす間に、あらかじめ何度か練習をしておいた。ホワイトチョコの入ったチューブを手に取ると、ゆっくりと確実に、チョコの上に文字をデコレートしていく。そして最後に、アラザンなどを飾って――

「完成……だ」

 今やハウレーンの目の前には、労作と言えるチョコレートが鎮座していた。ハウレーンは力尽きた感じで、へなへなとテーブルに寄りかかる。しかしその顔には戦闘に勝利したような清々しい笑顔が浮かんでいた。

「なんでも、死ぬ気でやれば出来るものだ」

 なんだか誇らしい気分になってくる。しかしハウレーンは気付いていなかった。あまりに熱中し過ぎたせいで、忠実に本の通りに作ってしまったことを。

 つまり、完成したチョコは、大きなハート型をしており、やや歪んだホワイトチョコのデコレート文字は見紛う事無き「I LOVE YOU」。それは最早、「仕方なく作った」義理チョコなどではなく、誰がどう見ても堂々たる本命チョコであった。

 ――まあ、ランスの不興を買わぬのが目的であるから、出来が良いに越したことはないのだが――

「ああっ!?」

 突然、ハウレーンが素っ頓狂な声をあげると、頭を抱えた。

「…………包装は、どうするんだッ……!?」

 時計を見上げて愕然とする。日付は14日。時計の針は既に4時を回っていた。








「おはようございます、ハウレーンさん――って、うわっ!?」

「ああ、メナドか……おはよう」

 ハウレーンはまぶたを擦りながら手を上げた。

「どうかしたんですか? すごく眠そうですよ」

 ハウレーンさんらしくもない、と呟いてメナドは首を捻った。メナドの言う通り、今のハウレーンは酷い顔をしているに違いない。あれからラッピングの材料を探して押し入れを掻き回し、どうにか使えそうな小箱とリボンと包装紙を探し当てたのが日も昇った頃。それからまた悪戦苦闘して包装を終えたのだ。つまり徹夜だった。

 しかしそれを説明するわけにもいかない。余計な詮索をされる前に、ハウレーンは慌てて話を逸らした。

「ん、ああッ、ちょっと……寝不足で……。それより、何か用か?」

 そう尋ね返すと、メナドはそれ以上の追求は忘れたようだった。ぱっと笑みを浮かべる。

「ハウレーンさん、手、出してください」

「こうか?」

 言われるままにハウレーンが手のひらを差し出すと、その上にぽん、と小さな包みが乗せられた。手の平に収まる可愛いサイズ。けれどそれはピンクのリボンでラッピングしてある。

「え? ……あっ、わっ!?」

 それがチョコレートだと気付いて、ハウレーンは思わず、熱いものにでも触ったように手を放した。

「うわっ、と、危ないなァ……何するんですかっ、ハウレーンさん!」

 危ういところで包みを空中でキャッチして、メナドは咎めるように眉を上げた。

「それはこっちの台詞だ! 私は女だッ! 何を考えてるんだメナド!」

 そう怒鳴ると、メナドは一瞬きょとんとして、それから笑った。

「アハハ、別にぼく、ハウレーンさんに愛の告白をしようだなんて思ってないよ」

 くっくっと笑いながら。メナドはもう一度ハウレーンの手に包みを押し付けた。

「これは『ともチョコ』。知りません? 最近、女のコ同士でチョコを贈るのが流行ってるって」

 流行りモノに疎いハウレーンには初耳のことだ。ようするに義理チョコの友達版のようなものだろうか、となんとか理解する。

「男のヒトにだけあげるのも、なんだか寂しいから。手間はあまり変わらないし。ほんの気持ちです。そーいうわけで、そんな身構えないで下さいよ、ハウレーンさん」

「そ、そうか……それなら、ありがたく頂くとする」

 自分がさんざん悪戦苦闘したチョコ作りを、さらりとこなしたらしいメナドを畏怖の目で見ながら、ハウレーンは包みを受け取った。

「それじゃぼく、まだレイラさんや他の将軍たちにもチョコ配ってこなくちゃ!」

 元気良く走っていったメナドの少年のような後ろ姿を見送って、ハウレーンは言いようのない敗北感を覚えていた。

(あのメナドでも、こんな手作りチョコを作るんだな……)

 いつも剣技にしか興味がないと思っていたメナドの、意外な女らしい一面を初めて知って、ハウレーンは驚愕する。今まで、ハウレーンはメナドにある意味で親近感を覚えていた。同じ副将であり、女らしさなどというものがない同士として。しかしこんな可愛らしいチョコを見せられたのでは、それはハウレーンの一方的な思い込みであったのかもしれない。

 自分のラッピングのいかにも不恰好なチョコと比べて、憂鬱になる。今になって、後悔が波のように押し寄せてきた。

(みんな、さぞ綺麗なのを用意しているのだろうな。こんな……不細工なチョコなど、渡してどうしようと言うのだ)

(所詮、噂だ。気にしたのが馬鹿だったんだ。いくら王がいいかげんでも、チョコひとつで待遇を変えるなど……)

(だいたい、どうやってこれを渡す? あのフラフラしている王が捕まるとは思えない)

(しかし、用もないのに謁見の間に行くなど……問題外だ)

(だとしても、『王を見なかったか?』などと探し回るのも――)

 ぶんぶんと頭を振った。心は千々に乱れ、とりとめのない想いが交錯する。

 ハウレーンはとぼとぼとあてもなく歩きだした。幸い、今日まで休みはとってある。ふらふらしていても咎められる恐れはなかった。

 そうして、どのくらいそうしていただろうか。ふと顔を上げると、ハウレーンは親衛隊の詰所の前を通りかかっていた。レイラの声が聞こえる。誰かを叱責しているようだ。扉の外まで声が聞こえてくる。

「戦場での流言飛語がどんなに危険か、わかっているでしょう!?」

 レイラは今日も仕事熱心なようだ。それに比べて自分は、ひとりでどたばたした挙句、仕事も休んでいる。このままここにいて、レイラに会わせる顔もない。そう思って詰め所から離れようとしたその時だった。

「まったく……あなたたちだったのね。変な噂を流したのは!」

 そんなレイラの言葉が、ハウレーンの耳を捉えた。







「結局、必要なかったワケか……」

 陽もとっぷりと沈んだ頃。箱にかけられた不恰好なリボンを指でもてあそびながら、ハウレーンは呟いた。ふぅ、とため息が漏れる。それは安心ゆえか、それとも失望ゆえか。ハウレーン自身は意識していなかったが、傍目には誰が見ても後者のそれだった。

 あの後、くだんの噂を流したのが親衛隊員の1グループだと判明した。そして、その噂がまったく根も葉もない事実無根のものだということも。バレンタインの風習に疎いJAPANの姫や、破滅的な料理音痴がいるせいか、ランスはどうやらチョコにそれほど執着していないらしい。

 つまり、ハウレーンが必死に用意したチョコレートは宙ぶらりん。もともと保険の意味合いで準備したものだ。苦労を考えるともったいないとは思うが、いまさら渡すほどの意気込みも残っていなかった。

「ええい! なんであんな男のために、こうまで思い悩まなくてはならないんだっ!!」

 考えてみれば、ここ1週間ばかり、寝ても覚めてもチョコの――ひいてはランスのことを考えていた気がする。その事実に気付いて、ハウレーンはひとりで真っ赤になった。

 そして思い余って、ゴミ箱に投げ捨てようと、チョコを掴む。

 ノックが響いたのはその時だった。

「ハウレーン副将。ランス王がお呼びです」







(王……いったい、どうして……)

 ハウレーンは緊張の面持ちで王の居室に向かった。不安で動機は早まり、頭ではいろいろな考えが浮かんでは消える。

(やはり、チョコを渡さなかったことを怒っているのか? いや、それでは夜に呼び出す説明にならない……)

(だとしたら、チョコは関係ないのか……しかし)

(わざわざこの日に呼び出すなど……他にいくらでも……慕っている娘もいるだろうに……)

 考えながら歩いていると、いつの間にか目の前には見慣れた扉が立ち塞がっていた。しかし今夜は手をかける気になれず、扉の前でうろうろと逡巡する。それはハウレーンには珍しい行動だった。もし見かける者がいれば、不思議に思ったろう。この男のように。

「なにやってるんだ、ハウレーン?」

「きゃっ! つっ、あ……っな、ランス王?」

 いきなり背後から声をかけられて、ハウレーンは思わず飛び上がった。てっきり部屋の中にいると思ったランスが、変なものを見るような目でハウレーンを見詰めていた。

「どうして……、いや、いったい何時から……?」

 自分の行動を見られていたのかと、ハウレーンが赤面して動揺する。しかしランスは別段気にした風もなく、さっと扉を開けた。

「そんなところで突っ立ってやがって。入れんだろうが。ホラ、さっさと入れ」

「あっ……」

 尻を押され、部屋の中に連れ込まれる。ランスが後ろ手に扉を閉める音が聞こえた。





 もう何度も入ったことのある、王の寝室。今日はその雰囲気が違う気がした。しかしそれは気のせいだ。

 ハウレーンの気持ちが違うせいなのだ。まるで初めて男の部屋に入ったかのように、ハウレーンの鼓動は早鐘を打っている。けれど、

「やれやれ、どこで油売ってたんだ? 待ちくたびれて、小便に行って、戻ってくるぐらい暇があったぞ」

 百年の恋も冷めるような無神経な物言いで、ハウレーンの頭は少し冷えた。だが疑問は消えない。あいかわらずランスの思惑が読めず、戸惑いは消えない。

 チョコは、いちおう持ってきている。けれど渡すタイミングなど、初めから失ってしまった。そんな風でぎこちなく、所在無い様子をしていたせいだろう。

「おい、ハウレーン。本当に今日はなんだか変だぞ。何か悪いモンでも食ったか?」

「べ、別に、変じゃないし! 食べてもいないッ!」

「それならいいんだが……なら、何をモジモジしてるんだ」

「う……」

 さっ、と包みを隠したハウレーンの仕草を、ランスはめざとく見逃さなかった。すす、とハウレーンに近付いて、素早く包みを奪った。

 ひょい、と頭の上にかざして、しげしげと見る。

「なんだ、チョコじゃないか。これを隠してたのか。可愛いヤツ」

「あっ、か、返せ!」

「返せだと? なんだ、俺様のために持ってきたんじゃないのか?」

「そっ、それは……!」

「もしかしてバレス宛かッ? だとしたら没収だ! 老人に甘いものをやると虫歯になるぞ!」

「そんなわけあるか! 貴様のために作ったに決まってるだろうッ!!」

 思わず口走ってしまって、ハウレーンは硬直する。ランスもびっくりしたように動きを止めたが、すぐ立ち直って、ニヤリと笑った。

「……なら問題ないではないか。貰うぞ」

「ああっ!」

 そしてチョコの包みをぽいっとサイドボードに放り投げてしまった。そこには他の娘たちからもらったのであろう、色とりどりの包みがうず高く積もっていた。そのてっぺんにハウレーンのチョコは落ち、それからゆっくりと山を滑り落ちていった。

「ああっ――」

 それを、ハウレーンは呆然と見ていた。

 あんなに頑張って作ったものが、どきどきするようなイベントも起こせずに取り上げられ、目の前でぞんざいに扱われ、その他諸々と一緒くたにされる様を。




「まあ、俺様はチョコなんてどうでもいいんだが……もちろん、貰えるに越したことはないがなッ!」

 ハウレーンの様子に気づかずに、ランスは既にチョコを意識の外に追いやり、いそいそと服を脱ぎ始めている。

 ランス基準では、チョコによる告白などは前座というか、なんといってもSEXが大事なのである。もちろんチョコをもらう=愛の告白というのは嬉しいが、直に身体を合わせることに比べたらほんの些細なことだ。だから、こんな女心のわからない言葉も平気で出る。

「しかしモテ過ぎるのも考えものだな。チョコが山盛りだ。だいたい、チョコなんて甘ったるいもの、そんなにたくさん食えるわけないだろうが。それを女どもはわかっとらん……って」

 そこまで口にしてしまってから、ランスはハウレーンの様子がおかしいことに気付いた。顔を俯かせて、わなわなと震えている。影になって良く見えないが、その目尻には何か光っているものが見えるような――

 しかしそれを確認する間もなく、

「この……っ、大馬鹿ァァァァァァァァッ!」

 見事なビンタが、気を緩めていたランスの顔に、クリーンヒットした。

「ぐわっっっッッ!?」

「なにが食えるわけない、だ! 人が一生懸命、徹夜までして作ったというのに――……初めて、だったのに――……チョコの扱いといい、その言い草はあまりに――」

 そこまで言って、ハウレーンは慌てて口を押さえた。見ればランスが口をぽかんと開けて見つめている。目の端をぬぐって、そっぽを向く。

「……っ、今のは忘れろ。失礼する」

 踵を返す。首筋が熱くなっているのを隠すように。けれども伸びてきた腕が、部屋を出るのを許さなかった。

「なっ、ランス王?」

「待て待て。逃がさんッ」

 ぐいっと腕を引かれ、ベッドに引き戻される。

「あっ!」

 ベッドのスプリングが軋み、ハウレーンはランスの腕の中に落ちた。抱きすくめられて、身動きが出来なくなる。

「ここ数日休んでいたようだが……俺様のために、徹夜でチョコを作ってたのか?」

「ッ……誰が、貴様などに……」

 嘘だ。あれだけ悪戦苦闘したことを思い出し、頬が火照るのを感じる。自分は何故あれほどに頑張ってしまったのか? ハウレーンの心は揺れた。何故か、涙が出てくる。

「照れるな、照れるな。…………俺様があまりにもモテ過ぎて、不安なのはわかる。だが安心しろ」

「何を……」

「おまえは俺様の女だ。それも、年上のくせにからかうと可愛いとびきりの女だ」

「それで……、誉めてるつもりかッ!? って、コラッ、胸っ、あぁっ!」

 ランスの腕がハウレーンの身体をまさぐり、敏感な部分に潜り込んでくる。胸の先端をこねられ、すぐに尖り出したそこをいじられると、弱い。

「あっ、や……んッ!」

 思わず声が漏れて、慌てて口をつぐむ。けれどそれが、ランスの望んでいた反応だったようだ。

「ほら、な。……可愛いぞ、ハウレーン」

 耳元で囁かれる。真剣な声音にどきりとする。それから、ランスの声はぼそぼそと小さくなって、

(……まさか泣くとは、思わなかった)

 聞き取れなくて、ハウレーンは振り向こうとしたけれど、結わえた髪が邪魔で、上手く行かない。もがく間に、今度ははっきり聞こえた。

「さっきはその、なんだ。……チョコは後で食わせてもらうぞ」

 それは到底謝罪と言えない言葉。けれどそれだけで、ハウレーンは身体の力が抜けた。くたりとベッドに倒れる。見上げたランスの顔は、もういつもの自信に溢れた顔に戻っていた。

「……その前に、ハウレーン、お前をいただくぞッ!」

「あ……っ!」

 服が脱がされて、下着までが取り去られる。素肌と素肌が密着する。もう幾度と抱かれてしまった身体の温もりに、自然と身体が反応してしまう。

「ランス……王……」

 抗う力は萎え、声は熱に掠れていた。

 腕が伸びてきて、ハウレーンのおとがいをつい、と上に向かせる。潤み始めた瞳に、ランスの顔が映る。

「あッ……」

 唇が重なり、ふたりは絡み合うようにしてベッドに倒れ込んだ。









「は……ふ……」

 口にあてがった細い指先の間から、控えめに押し殺したあくびが漏れる。ハウレーンはぼうっとした頭を抱えて机に向かっていた。

「ハウレーン、調子が悪いようですね。寝不足ですか?」

「はっ、え、ええ。まぁ……。申し訳ありません」

 上司のエクスが、珍しいものを見た、といった様子で眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく輝かせている。とはいえ、咎める気はないようだ。別段気にしてもいない風で、謝るハウレーンを面白そうに見る。

「休みボケですか。まあそれも構わないでしょう。王ものんびりなさっているようですしね。2、3日ぐらい気を緩めても」

「ランス王が?」

「先刻、玉座でチョコレートをばりぼり食べながらリラックスしていましたよ。なんでも、貰った以上全部自分で食べる、とか」

 その言葉に、ハウレーンはハッと顔を上げた。

「本当ですか?」

「ええ。『お前にはやらんぞッ!』と早々に叩き出されましたよ。でもハウレーン、それがどうかしましたか?」

 いえ、と。言葉を濁して。

 それでもハウレーンは微笑みがこぼれるのを抑えられなかった。

「そうか……あの男がそんなことを」

 頬を張られ、少しは女の気持ちを慮るコトを覚えたのだろうか。それとも、不覚にも見せてしまった涙の効果か。どちらにしても、そうさせたのが他ならぬ自分だという思いが、少しだけハウレーンを嬉しくさせる。

 今もランスは、山盛りだろうチョコに眉をひそめながら、チョコを頬張っているのだろうか。その姿を想像して、ハウレーンはくすくすと笑った。

(これだから憎めない……あの人は)

 ふと見ると、窓に映った自分の顔が、見たことのないような優しい顔をしていて、ハウレーンは思わず頭を振った。

 もう浮かれ騒ぎは終わりだ。早くいつもの自分に戻らなくては。男勝りの白の副将、ハウレーン・プロヴァンスに。

 けれどその日一日、頬がゆるむのはどうしても抑えられなかった。



 

 あとがき

 バレンタインSSです。といっても、何度もメナドで書いてもネタがないので、ちょっと趣向を変えてハウレーン。VIでのサーナキアのツンデレっぷりから、物凄い勢いで存在意義が脅かされているので、その補完の意味もあって書いてみました。

 で、思い出すために鬼畜王のテキストを読み直してみたんですが、やっぱりハウレーン可愛い。年上なのが良いですよね!
 今回もランスが甘いですが、私の書くランスはいつも甘くなってしまうので、そこはこんなもんだと思ってくださると。SM塔イベントとかは起こしていない方向でひとつ。

2005.2.13

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