それは遥か昔。人類にとって地獄の時代だったころ。魔王ジルとその配下の魔人が大陸を支配していた、弱肉強食の時代。
少女は鬼子だった。
その生まれ持った特異な力ゆえに、人々から疎まれ蔑まれた。少女が生まれた集落を追われるまでにそれほど長い年月は要しなかった。それから、少女はたったひとりで生きなければならなかった。
少女は生き抜いた。幼くか弱い少女が生きていられたのは、自分を集落から追い落としたその力ゆえだった。モンスターの巣食う森で、たったひとりきりで。
けれども、その孤独が打ち破られる日が来た。
その森は、大陸南東部にあった。細い川の流れる静かな森だ。そこに少女と男はいた。
少女は驚きに目を見開いていた。突然目の前に男が落ちてきたのだ。黒く、大きな男だった。まるで闇のように黒い。
「だれ……?」
「くっ……来るんじゃ……ない。ツッ……ウ……」
少女に背を向けて、男はそう言った。声が震えている。身体も。
「ケガ……してるの?」
男は、刀身まで漆黒の黒い剣を支えに、なんとか身体を起こしていた。黒く長い髪が印象的だった。顔は見えない。破れたマントの隙間から覗く身体にはたくさんの傷跡がある。
「血が出てる……」
その傷口を見ようと、そっと男のそばに寄った。
「近づくな!」
「あっ」
ばっと振り払われて少女は尻餅をついた。けれども目は男の顔に釘付けになっていた。
「見るんじゃない……近づくなと言ったんだ……」
その男には、顔が半分なかった。何かにえぐりとられたように顔の表面が剥がれ落ちている。それはとても正視に耐えられるようなものではなかった。血の滴る筋肉が、男の呼吸に合わせて収縮した。
「……どうした。言葉もないか……」
苦しそうに男は言った。少女はしかし首を振って、おずおずと男に近寄った。
「痛そう」
「そうだな」
「治らないの?」
「無理だろう。いくら魔人とて、身体の一部を完全に失ってしまっては……」
「魔人……」
その言葉が、どんな意味を持つかに思い至ったように、少女は呟いた。男は口調を強くした。
「わかったろう。さっさと私から離れろ! さもなければ……」
「さもなければ……?」
「私は……おまえを喰らおう」
その言葉を最後に、男は意識を失った。
ぱしゃぱしゃと、水音がする。男はその音で意識を取り戻した。
「何の音……」
目を開けて、視界がやけに狭いことに気付く。右目が機能していなかった。
「フッ」
くり抜かれた右目に未練があるわけではない。それに見合う代償は奴に与えた。男はただその状態を受け入れて、音の正体を確かめようと身体を起こした。そしてはじめて、自分が薄暗い洞窟に寝かされていたことに気付いた。木の葉を集めた粗末な寝床に、自分のマントが身体にかけられている。
「気がついたんですか?」
「おまえか……」
洞窟の入り口に少女が立っていた。水に濡れた布を手に持っている。それで男の傷を冷やそうとしたのだろう。さっきの水音はそれか、と男は思った。
男は少女を観察した。ところどころ破れたみすぼらしい服を着た小さな躰。それに似合わない、意志を感じさせる鋭い瞳。けれどもその色は悲しげに見えた。
少女は男の視線に構わない様子で、男の傍らに腰を下ろした。
「ケガ……見せてください。治せるかも」
「医術の心得でもあるのか」
多少驚きの響きを伴った男の声に、少女は首を振った。
「ただ、治せるだけ」
そう短く言って、スッと男の顔を覗き込んだ。男は自分の視界の外で、少女の小さな手が傷におそるおそる触れるのを感じた。それは男が今までに感じたことのない不思議な感触だった。魔法とも違う、ただ、魔力よりも生命力のようなものを感じた。少女の手が触れると、傷の痛みが癒えるような気がした。
「…………」
ややあって、少女は無言で離れた。
「どうした」
「無理です」
「そうか……?」
「ごめんなさい」
「いや、礼を言う。大分楽になった気がする」
男は、少女が持ってきた布で右半面を隠した。冷たい水が心地良かった。
しばらくの沈黙のあと、男は言った。
「なぜ、私を助けた?」
「わからない。ただ、放ってはおけなかったから」
「怪我をした者は魔人だろうと助けるのか? 優しいことだな」
侮蔑するような言葉に、けれども少女はゆっくりと首を振った。
「人間なら、助けなかったかもしれない……」
「フッ……」
男は笑った。
「おまえを喰らうと、言ったはずだ」
「それは、私があなたのしもべになると言うこと?」
男は少々驚いた。何も知らないと思っていた少女が、そんな言葉を返してきたのだ。
「それとも、血を吸うの?」
「なぜそう思う」
「あなたは人を食べるバケモノには見えないから」
「魔人を外見で判断するか」
男は笑いに顔を歪めた。だんだん少女に興味を覚えている自分を感じた。
「外見が人間でも人を喰らうようなやつはいるから」
「ふん……」
「それに」
少女は続けた。
「私はもう人間じゃないみたいなものだから」
「なに? それはどういう……」
男が言いかけたとき、猛獣の唸るような声が洞窟の奥から響いた。男が剣に手をかける。
ずしん。グルルルルルゥゥゥ……。
「なんだコイツは……?」
そいつは男が見たこともないモンスターだった。体は大きく、6本ある手足、身体の上のほかに腹にもある顔。奇妙なことに、それは生物が本来持つバランスというものをまったく欠いた姿に見えた。
「待って」
剣を構える男を少女が制した。
「大丈夫」
そう言って、ひとりでモンスターに向かい合う。凶暴なモンスターの前にひとり立つ少女は、いっそう小さく見えた。モンスターの手が振り上げられ、男は最悪の事態を予想した。
「……なるほど……」
けれども、そうはならなかった。男は納得して嘆息した。
「これが、私が人間でない理由……」
グルルルルルゥゥウ……。モンスターはその太い腕で少女を抱きかかえていた。まるで壊れ物を扱うように、従順に優しく。
「魔物を操り従え、あまつさえ自分の思うままにその肉体を変えることが出来る――これ
が人の力?」
少女はその顔に自嘲的な悲しそうな笑みを浮かべた。
「フフフ……」
男も笑う。しかしそれは少女とは違う、純粋に期待と喜びとを背景に。
「確かに。それなら……いま一度問おう」
「はい……」
「私が怖いか? 怖ければ私から離れることだ。そして二度と近づくな。さもなければ」
「怖くなんか……ない」
「なれば私はおまえを喰らおう。そして、おまえは二度と私から離れられなくなる」
少女は震えた。それがどんな心の動きか、男にはわかった。そして、少女はこくりとうなずいたのだった。
それは、罪であるのかもしれなかった。人の世にいられない孤独の代わりに、永遠に消えない枷を与えること、それが彼女の望みであっても。それは契約。少女が得る物は不老不死と使えるべきあるじ。ならば男が得る物は――?
「おまえの命を、貰う」
男は、抱きかかえた少女に顔を近づけた。少女のか細い躰は震えていて、男には熱を帯びたように熱く感じられた。青くサラサラとした髪が流れる。白い首筋が見えた。
「っ! あ……」
少女の躰がびくん、と跳ねた。青い目が開かれる。その視線は男の傷の無い半面に注がれた。男の口から伸びた鋭い牙が、少女の首筋に突き立っている。
「いッ……ああッ……ああ……ぁ……」
少女のか細い悲鳴と共に、男の牙は白い皮膚を破り、ずぶずぶと少女の躰に侵入していく。少女の躰は痛みに痙攣した。真っ赤な血が溢れ出して、白い肌を伝う。男の喉が鳴って流れる血を飲み干す。少女の血は極上の美酒にもまして男の渇きを癒す。
「は……あっ、はあァ……」
少女は熱に浮かされたように手を伸ばした。それが男の黒髪を掴む。もっと促すように、男の頭が首筋に押し付けられる。男はいっそう強く少女をむさぼった。少女の目がこれ以上ないほど見開かれ、瞳からは光が失われていく。少女の躰は弓なりに反り、爪先まで足がぴんと伸びた。それは死に落ち行くゆえの快楽。少女の躰はぴくりぴくりと痙攣していた。
「おまえの身体には、もう、血はほとんど残っていない……」
男は口を離すと静かに言った。少女の目は虚ろで、もう何も見えていないだろう。
「生きたいか?」
少女の耳元に顔を寄せて、男は囁くように尋ねた。
「魔人としてでも、生きたいか?」
少女の躰からはもはやあたたかみも失せ始めている。男はその小さな躰をしっかりと抱き寄せて、もう一度尋ねた。
「私の傍に、いたいか?」
「……たっ……ぃ……」
少女の口が動いた。ひゅうひゅうとかすれた息が漏れて、何とか意思を伝えようとする。けれども男にはわかっていたのだ。血とともに流れ込んできた少女の記憶に、答えは初めからあった。
男は黒い剣で自分の手首に傷をつけた。赤い血が噴き出す。それを少女の口元に押し付けた。
「飲むのだ」
ぽたりぽたりと少女の口の中に血が流れ落ちる。
「飲むのだ……この魔人の血を。魔王の血を!」
少女の喉が動いた。こくん、と。真っ赤な血はさらにぽたぽたと滴り落ちる。
「あ……ぅ……」
少女は必死にその腕にすがりついた。ごくごくと喉が音を立てる。焼け付くように熱い。体中の細胞が沸き立って弾けてしまいそうな感覚が少女を襲う。
「ふぅっ、あっ、ああああぁぁぁぁッ……!」
少女の躰が歓喜に震える。その瞳が染まる。赤く、赤く……血の色に。その小さな口から牙が覗く。
「くうっ」
必要以上に血が吸われる痛みに、男は少女を引き剥がした。けれどもその顔はすぐに笑いに歪んだ。
「フフ……」
「はあっ……ふう……ん」
膝をつき、荒い息を上げる少女の手を引いて立たせた。その唇についた己の血を指でなぞるように拭う。
「おまえは私が初めて創りし魔人だ、シルキィ……」
「は……い……」
少女――シルキィは男を見つめた。
「……ガイ様」
ガイがジルを倒し魔王になってから、数百年が経った。それはシルキィが魔人になってから、それだけの歳月が流れたということだ。けれどもシルキィはまだ自分が生まれ変わった日のことをはっきりと覚えている。
シルキィはちらと玉座に座るガイを盗み見た。ガイは随分と変わってしまった。あまり感情を見せないようになった。何事にも無関心になった。それでも、シルキィの感情は変わらない。忠臣という言葉が相応しいように、彼女はガイに仕えている。
ふと、ガイの横顔が苦痛に歪んでいるように見えて、シルキィは声をかける。
「ガイ様、傷が痛むのですか」
「いや……ただ、昔を思い出していただけだ。おまえに出会った頃を」
シルキィは少し驚いた。自分とガイが同じことを考えていたことに。
「…………そう……ですか」
「私の顔の右半分は、おまえに貰ったものだからな。シルキィ」
「それは……ですが……」
シルキィの顔が暗くなる。ジルに傷つけられたガイの顔は結局元に戻らなかった。だからシルキィが自分の力"魔物合成"の力を使って張り合わせたのだ。
「どうした。言ってみろ」
「……鬼の顔などガイ様には相応しくありませんでした」
「構わん」
ガイは憮然として言った。角の生えた右半面を撫でる。
「かえって魔王としての貫禄が出るというものだ」
しかしその答えにもシルキィの表情は晴れなかった。
「それとも、醜いと思うか」
「いいえ! 私は……」
「なら、良かろう」
ガイはそう言って、少し顔をほころばせた。この頃は滅多に見せなくなった生きた表情だ。
「私も気に入っているのだ」
その笑顔に、シルキィの心はあたたかくなる。シルキィは心の中ひとり呟いた。
(私は……醜いなんて思いません。それは私が形に出来たたったひとつのものだから)
魔王と魔人であること。そこには無限の隔たりがある。けれどもシルキィは想いを胸に秘めて、仕えてきた。そして、これからも仕え続ける。
(私の心は、もう二度と離れられなくなったのですから。あなたから……)
あとがきと蛇足
うーん、なんか頭にあるモノが上手く文章にならんですね。いろいろもやもやしたものが頭にはあるんですけど。シルキィの気持ちとかガイの気持ちとか。それでもあからさまに書くこともないかと思うこともありますが。
蛇足な説明を加えておくと、時代はGL1004年ごろ。魔王戦争終局のあたりです。よってガイはカオス持ってます。バカ剣が喋るとシリアスが台無しになるので無言ですが、ガイの持っている黒い剣はカオスです。ガイの顔右半分をえぐりとったのはジル、それをシルキィが魔物合成で新しい顔を与えた……ってのが私の妄想ですね。ガイのわけわからない左右非対称な顔は、ホントにそうでも考えないことには謎過ぎます。まさか生まれつきってことはないでしょう? 血の儀式については、アン・ライスのヴァンパイア・クロニクルシリーズな感じで。魔血魂の授受と言う形は個人的にあまり好きではないです。やっぱり吸血鬼(魔王)は血を吸ってこそだと思いますね。そのほうがエロティックだし……ただし、ケイブリスとかは不可(笑)
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