魔王城。魔の森の北、大地に空いた巨大な窪みの中にそびえる支配者の城。その城に、暦が新しく――つまり魔王ランスのイニシャルを取ったRC暦となって――から、初めての新年が訪れようとしていた。
魔王の寝室ではランスが大口を開けていびきをかいている。いつもなら女のひとりやふたりと共に寝ている広いベッドは、珍しくランスひとりだけが手足を大の字に広げて寝ているだけだ。もちろん妃であるサテラをはじめとして、ランスの側近たる魔人であり、ランスを愛している娘たちは皆ランスと共に大晦日のこの夜、そして新年に昇る朝日を愛しい男の腕の中で迎えたがった。
「ねえランス、今夜はサテラと一緒に寝てくれるでしょ?」
「ランス、私とリセットと一緒に……」
「らんすぅ〜」 「魔王様……」 「おにーちゃん!」
「みんな……物好きね……。マリアは行かないの?」
「わ、私は……」
「あたしはハウゼルがいれば……」
「私も、姉さん……」
……一部、そうでない者もいたが。
そういう選り取りみどりの状況で、
「がはははは、全員まとめて可愛がってやるぜ!!」
とランスが言うと思った娘は、ひとりではなかったかもしれない。実際水面下で娘たちの思いや計算といったものがランスに気付かれることなくほとばしっていたのだ。しかしその予想は裏切られた。
「今夜は、俺様ひとりで寝る」
少し気だるげにランスの声が響いたとき、娘たちは驚いて顔を見合わせた。
「な、なんで? ランス……」
ランスのいちばん近くまで詰め寄っていたサテラが、皆の疑問を代弁するかのように尋ねた。深い青をたたえた瞳が、ランスの瞳を覗き込む。その鳶色の瞳は、サテラにはいつもの力強さが感じられないような気がした。
(ランス……? どうして、悲しそうな、いろ……)
しかしそれは一瞬の事で、ランスの目に悪戯っぽい輝きが戻り、いつものように口元を歪める。
「なんでってなぁ、お前達と一緒だと、朝まで寝られないだろ? それとも寝かせてくれるのか?」
その言葉に頬を染める者が数人。外見がむちむちでも中身がお子様なワーグやミルはその限りではないが。ランスは続ける。
「ま、俺様はそれでもいいんだが……。だが初夢が見られんじゃないか! 元旦の朝に初めて見るから初夢なんだぞ? 一年に一回しか見られんのに、いつもと同じ事をして見られんのはもったいない。だから、俺様はひとりで寝る。お前達もそれぞれ、いい初夢でも見ろ」
そう言い終え、ランスは身を翻すと宣言通りひとりで寝室に向かったのである。後に残された娘たちは、その言葉に納得している者やしていない者、それぞれが色々な反応をしていた。
「そんな〜魔王様……」
「どーせシルキィはもとから呼ばれないって」
「ランス……(さっきのは……錯覚……?)」
「ランスって、ああいうところあるわよね……。妙にこだわったり……非科学的だけど」
「マリアがこだわらなさ過ぎよ……」
「今日のドレスがいけなかったのかしら……?(でも魔王様の好みってまだよくわからないし……)」
「はつゆめ……。ホーネット、はつゆめってなに?」
「…………」
しかしランスがいなくなった以上、娘たちも諦めて早々に自室へと戻って行った。夜這いをかける、という案は魔王が「ひとりで寝る」と言った以上却下され、結局は誰が新年で一番にランスに挨拶するか、という考えにだいたい皆の思考は行き着いたようだ。だから早く寝て早く起きる、ということになったのだろう。そういうわけで大晦日の魔王城はことのほか早くその灯りを落とし、闇の中へと没していった。
そして、真夜中。時計の針が頂上を指して重なろうとする頃、静寂に包まれた魔王城の中を滑るようにして、二つの影がランスの寝室に現れた。
「ふふっ、よくねてる。ね、ラッシー?」
「わふわふ!」
「しーっ!」
慌てて口元に指を当てる。それはワーグだった。はちきれんばかりに成熟した肢体を、胸にハートマークをつけた可愛らしい服に包んでいる。しかしペットのラッシーの白いもこもこした体に抱きつくように乗りかかっているその仕草や言葉は、年端の行かない少女のそれだ。それは身体の急速な成長から来たものだったが、奇妙なアンバランスさがその魅力を引き出している。
「はつゆめって、いいゆめがいいんだって。ワーグがおにーちゃんにみせてあげる……」
ふわふわと浮いていたワーグは、そっとベッドの上に降りて座る。そしてランスの顔を覗き込むようにすると、手をかざした。
「ねんねんねん……」
ワーグの口から静かに流れるように歌が紡がれる。そのメロディに合わせるように、星屑のような光が、彼女の身体から零れ出てくる。
「ねんねん、いいゆめ。うれしいゆめ、たのしいゆめ。ねんねんねん……」
歌は続き、ワーグから出る光もその量と輝きを増す。そしてそれらはまるで意思あるもののように、ワーグの歌に乗ってランスの身体へと流れ込んで行く。
「……ねんねんねん、しあわせなゆめ……」
ワーグだけが持つ特殊技能、夢操作。その名の通り夢を見せ、その夢を自在に操る能力である。どんな夢でもまるで現実のように見せる事が出来るが、その詳細を無邪気なワーグが直接構成していると言うわけではない。夢の内容自体、それは彼女自身にもおそらく言い表せないだろう。ワーグはただ勘でそれを為す。対象の精神に漠然とした方向性を与えるだけで、あとはその精神が自分でそれを作り上げるのかもしれない。しかしとにかく、ワーグはただ大好きなランスに最高に幸せな初夢を贈ることを願って、その力を使った……。
そして朝。地の底にある魔王城が新年の光に照らされるのは、少しばかり遅い。
「……ねんねんねん……ふわぁ、もうあさになっちゃった」
ワーグは夜通しランスに夢を見せていた。子供っぽさの象徴のようなこの魔人が、それだけ長い時間集中していられたのは、ひとえにそのランスへの想いの深さゆえか。しかし朝になれば夢は終わる。ワーグはあくびをひとつすると、夢操作を終わらせた。
「さあ、おっきして、おにーちゃん」
ランスへと吸い込まれていた光が消え、ワーグがそう言った瞬間にランスは飛び起きた。
「シ…! ………」
驚いてあたりを見回す。その目がワーグと合った。ワーグは満面の笑みをつくった。
「えへ、あけましておめでとう、おにーちゃ…」
しかしその言葉は最後まで続かなかった。ランスはギュッとワーグの身体を抱きしめ、その豊かな胸に顔を埋めていた。
「あ、ちょっといたいよ、おにーちゃん……」
ワーグは少し戸惑いながら、自分の胸に埋められたランスの頭を見つめる。それが普段のランスとは違う事しか、ワーグにはわからない。
「……ワーグのゆめ、たのしくなかった……? しあわせなはつゆめじゃ、なかった……の?」
無言のランスに、不安げにそう言葉をかける。ランスはわずかに首を振ったようだった。しばらくして、ランスはワーグから離れると、ひとりでベッドから降りた。そしてそのまま窓際まで行き、ワーグに背中を向けたまま言った。
「……楽しかった。ワーグの夢はリアルだからな」
「……そう……」
それきりまた無言の時が流れる。ランスの沈黙は、ワーグにも口をつぐませていた。何度か口を開きかけるが、その度に何故か言い出せない。その雰囲気というものを、幼いながらにワーグは感じ取っていた。しかしやがて、まるでその沈黙の時間がまったく無かったかのようにランスは言葉を継いだ。
「……だが、俺様が誰とも寝ない、各自で初夢を見ろと言ったのを、お前は破ったな」
「う、うん……」
「また今夜、お仕置をしてやる。だから今は、自分の部屋に戻ってろ」
「うん、ごめんなさい、おにーちゃん……」
ふわふわと力なくワーグはラッシーと扉へと向かう。
「待て!」
「なに?」
突然かけられた声にワーグは振り返った。差し込む朝日を背にして、ランスがこちらを向いているのが見えた。その顔は逆光で陰となっていたが、そこから聞こえる声は優しかった。
「いや、あけましておめでとうな、ワーグ」
「うん!」
ワーグは元気に答えた。
「…………」
ワーグが部屋から出て、ひとり立ち尽くしていたランスは無言だった。その心を捉えているのは先ほどの夢だ。
「夢みたいな……なんて言葉なんざ、ワーグの夢には当てはまらないな。あれは現実だ。そうとしか感じられん……」
ひとり呟き、窓の外の空を見やる。
「馬鹿野郎が! お前の不味い正月料理の無い正月なんて……ふん、嬉しくて、嬉しくてだな……」
ばん! 窓を叩く。うつむいたその顔からは表情は窺えない。ただ震わせた肩だけが、その心を物語っているかのようだった。
「夢、だったんだな……」
窓の外には、朝焼けの淡い桃色の空が広がっているだけだった。
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